考える時代から感じる時代へ
Posted by local knowledge on July 8th, 2022
古典落語に「しわい屋(上方では「始末の極意」という演題です)」という小噺があります。筋金入りのケチが鰻屋(うなぎや)の隣りに引っ越してきて、隣りで焼く鰻の“匂い”をおかずにご飯を食べていました。それを嗅ぎつけたこれまたケチな鰻屋が、今までの鰻の匂いの“嗅ぎ賃”を払え、と言いながら家に押しかけてきた。そこでその筋金入りのケチは、財布から小銭を取り出し、チャリンチャリンと音を立て、「匂いの“嗅ぎ賃”は“音”で払ったぞ」と切り返し、鰻屋を追い払ったという話です。これが単なる笑い話とは思えないのは、久野愛さん(東京大学)がModern Timesでご紹介いただいた下記の宮沢賢治の詩を読むとはっきりします。
あわたゞしき薄明の流れを 泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら 食器の音と青きむさぼりとはいともかなしく その一枚の皿 硬き床にふれて散るとき 人々は声をあげて警いましめ合へり 宮沢賢治「公衆食堂(須田町)」『東京ノート』
ヒトという生物が視覚優位であることは近代化においては圧倒的なメリットだったわけですが、昨今のClubhouseなどの音(Voice)のサービスの急増は、そのような視覚優位に対するカウンターかもしれません。視覚以外の五感を取り戻そうという動きは(日本に限らず)世界的なムーブメントのように感じるのです。メタバース(Metaverse)は余計なお世話でしょう。何しろ実空間のほうがよほどメタバースですからね。
帰郷した時に「ああ、帰ってきたなあ」と実感するのはその街や実家の独特の“匂い”であることが多いはず。一方、視覚情報は昔の記憶をどんどん塗り替えてしまう(e.g.新しいショッピングモールが出来た、近くにあったはずの団地が全て取り壊されていた、など)のでそこに懐かしさを感じるのは困難です。音、匂い、触覚の記憶は言語化不能(日本語には“オノマトペ”という強力な武器があるのは確かですが)ではあるのですが、価値が長期間持続する、繰り返し使える、という強みがあります。 日本三大秘境にある椎葉村図書館は、椎葉村で育った人が“帰りたくなる”図書館なのだそうです。ここにはおそらく図書館そのものの魅力に加え、何らかの五感の価値が埋め込まれているはず、と睨んでいます。
ローカルナレッジ 発行人:竹田茂
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