健全な言論という不健全な発想
Posted by local knowledge on August 12th, 2022
ソーシャルメディア全盛時代の昨今に感じるのは「世の中にはこんなにたくさんの“教えたい人”がいたのか」ということですね。教わりたい人よりも教えたい人のほうが多いのではないかとさえ思えてきます。玉石混交なので良質なものを選ぶのが大変かと思いきや、これらの教材のレベルはおしなべて高く、特に内容(semantics)以上に形式(Syntax)に配慮している(e.g.黒板に文字を書いてるだけの時間は4倍速に編集してしまう、など)ので、実空間の授業よりも遥かに快適に感じる人も多いはずです。何よりも時間をユーザーがコントロールできるのがありがたい。そして自分の視聴記録とユーザーレイティングがアルゴリズムに反映されるので、レベルの低いもの、自分の関心とは合わないものは比較的正しくフィルタリングされます。問題は、このような教材に割り当てるべき自分の時間を制御するのが難しくなることでしょうか。同時に言論空間それ自体もいわば「教えたい人」の集合体なので、これが(いわゆる)アテンションエコノミー、フィルターバブル、エコーチェンバーの問題につながっていきます。
そうなると「健全な言論プラットフォームに向けた情報的健康(Infomation health)」を実現すべき、と考える人が出てきても不思議ではありません。不思議ではないのですが、しかし、この「健全な言論プラットフォーム」という発想自体があまり健全ではない気がします。何を健全と考えるかは人それぞれであることを担保する状態こそが健全だと思うからです。以下、このリンク先の記事で東京大学大学院工学系研究科教授・鳥海不二夫氏が主張していること(NHKあたりが狂喜乱舞しそうな提言なのですが)にかなり問題があると思うので、簡単に指摘させていただくことにします。
まず全体を通して、食事摂取を情報摂取のメタファーとして利用することが果たして科学的な態度か、という基本的な問題があります。これがあちこちでこの論考・論理が破綻している遠因になっています。加えて「専門家の作るコンテンツは非専門家の作るそれに比べて優れている」という前提があるようですが、これは一種の欺瞞ですね。東大の先生ならレイ・エキスパート(lay expert)という言葉はご存知のはず。さらに「情報やコンテンツに触れる際にそれらを主体的に選択できるような指標の設定」あるいは「個人がどのような情報に触れてきたかを可視化することで、情報接触行動の振り返りのきっかけを提供する」こと自体が最終的に思想統制につながる危険性を孕んでいる、ということをご理解されているのか甚だ怪しい。最高学府(東大)が行政と直結した公共放送(NHK)のために行ったかのような(これは邪推ですが)このような提言をまずは排除するところから「健全な言論プラットフォーム」は作られていくべきでしょう。
私自身は現在の言論空間が抱える最大の問題は「過剰なまでの匿名性の担保」にあると考えています。ただし、匿名性それ自体は投稿者の生命や生活の安全を保障するために必要な制度なので、実に悩ましい。ここで問題解決のための補助線になるのが「秘密(を持つこと)の豊かさ」にあるような気がしているのですが、まだ考えがまとまってないので、今日はこの辺りで止めておきます。
ローカルナレッジ 発行人:竹田茂
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