全ての消費には応援という成分が含まれている
Posted by local knowledge on August 19th, 2022
「応援消費」は2011年の東日本大震災を契機によく利用されるようになった言葉らしいのですが、初めてこの言葉を聞いた時に真っ先に思い出したのは、若かりし頃に買ったカメラのことでした。キヤノンのT90という一眼レフを手に入れ、マニュアルの表紙裏(P2)に記載されたこのカメラの概要説明を読み進めて行く中で「なお、このカメラには一切の技術的妥協はありません」という記述に目が釘付けになりました。印刷物にこのような文言を記すには相当な覚悟が必要です。そしてこう言い切ってしまった技術者と言い切る事を許した会社は「応援」に値すると確信したのです。
私が手にした個体は初期不良が頻繁に起きていたのですが「技術的に妥協してないのだから壊れやすいのは当たり前」なので、応援しようという気持ちを揺るがすことはありませんでした。壊れやすいけど技術的にはギリギリを攻めていた頃のソニーを彷彿とさせるカメラだったわけです(80年代は高度な日本のアナログ技術が世界を席巻していた頃ですね)。その後、キヤノンを応援し続ける事を決めた私は、FD/EFマウントのレンズ沼にハマり、プロのフォトグラファーでもないのにとんでもない金額をここに費やすことになるのですが、これはこのカメラを応援することを通じて、自分自身の判断そのものを自分で応援していたのかもしれません。応援には自分自身を納得させるための行為という側面があるような気もします。
ただ、全ての消費活動には、自分自身がそれを意識せずとも、少なからず「応援」という成分が含まれています。「おいしいパン屋さん」でパンを買うときに、パンそのものを評価して購入しているのは確かですが、そのおいしいパンを作ってくれる職人さんを(無意識に)応援しているのは確かでしょう。応援という成分は、どのようなサービスや財の購入にあたっても、必ず含まれているはずで、消費=応援、と言い切ってしまってもさほど乱暴ではありません。そう考えると「応援消費」はむしろ当たり前であって、クラウドファンディングという決済手段の台頭などがそれを後押ししているに過ぎないのかもしれません。
消費=応援消費、でも構わないわけですが、応援それ自体の守備範囲は消費(市場)に比べ、遥かに広いはずです。そして、消費を前提としない応援の中でも極めて崇高なもののひとつに(他人のために)祈る、という行為があります。特に、深い悲しみを抱いている他人に寄り添い、祈るという行為にはかけがえのない価値があります。8月26日に開催される宗教学者・島薗進氏のオンライン私塾/島薗塾では、長野県松本市の薬王山東昌寺住職で、ケア集団ハートビート 代表である飯島惠道さんをお迎えし、ケアの始まり、すなわち応援のきっかけはどうあるべきかを長年考え、実践し、熟考を重ねてきた方の声に耳を傾けることで「応援」の本当の価値を探ってみたい、と思います。久々の島薗塾は夏の終わりに開催するに相応しいテーマになりました。みなさんぜひお越しください。
ローカルナレッジ 発行人:竹田茂
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