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丁寧な説明という慇懃無礼

Posted by local knowledge on November 18th, 2022

記号としての言葉には多くの場合、3つの意味と役割が含まれています。すなわちデノテーション(denotation:明示的な意味)、コノテーション(connotation:暗喩=暗示的な言外の意味、またはメタメッセージ)、そしてアノテーション(annotation:注釈またはメタデータ)です。これらを組み合わせてメディアに出現するメッセージがほとんど思慮の浅いアジテーション(agitation:扇動)だらけなのが問題なのですが、それはまた別の話しとしておきましょう。

デノテーションは通常、群(グループ)の属性(attribute)を寄せ集めた定義に近い言葉になります。簡単に言えば「文字通りの意味」ですね。例えば「りんご」のデノテーションは「バラ科リンゴ属の落葉高木、またはその果実。品種は数千以上といわれ、栄養価の高い果実は生食されるほか、加工してリンゴ酒、ジャム、ジュース、菓子の材料などに利用されている(wikipediaより)」です。これがトラブルになることはあまりありません。アノテーションもその属性の一つとして利用されることが多く、多用されることで、デノテーション自体が確固たる、そして豊かなものになっていきます(ソーシャルメディアがゴミ(garbage)のようなアノテーションを無駄に量産している、という指摘もありますが)。

厄介なのはコノテーション(あるいはメタメッセージ)です。これがある意味、誤解を撒き散らすための道具として乱用されているのが現在の情報化社会の実態でしょうか。「リンゴが美味しい季節になったねえ」を文字通りの意味(=デノテーション)としてとる人はいないでしょう。これは「もう冬だ。寒くなったね」ではなく「リンゴを食べたいんだけど、買いに行くのが面倒なので、誰か買ってきてくれないかな」という単なる催促である可能性が高い。状況や人間関係の中から比較的妥当と思われる意味にとるしかないわけです。会話内容よりは阿吽(あうん)の呼吸そのものがコンテンツになっている例かもしれません。ただし、これが公文書として記録されるような状況で利用されると様々な問題を露呈していきます。

代表的なのが「丁寧な説明を行なっていきたい」というセリフでしょうか。みなさんお気付きのように、これは「利害関係者への根回し不足だったことは認めるが、それについてはもう決定を覆すつもりもないし、議論するつもりもない」というかなり強烈なメタメッセージになっています。突き詰めると「丁寧な説明」は「強引な実行」とほぼおなじ意味、ということになります。そもそも「その説明が丁寧」かどうかを判断するのはその説明を聞く人であって、説明する本人には「その説明が丁寧だ」と主張する資格がありません。「説明」は聞き手が納得すればいいのであって、それが丁寧かどうかはどうでもいいことです。「あの大工さんの仕事は丁寧だな」という施主による評価には大きな意味がありますが、当の大工が自分の仕事を「丁寧にやっておきました」と報告しても、施主としては「仕事なんだから当然でしょ」ということにしかならないはずです。

つい最近、鳥取県がアンディ・ウォーホル(Andy Warhol)「ブリロの箱」5点を3億円で購入したことが問題視され、説明会を開かざるを得なくなる事態に追い込まれたようですが 、これもアンディ・ウォーホルというアーティストや作品の特徴、あるいはその集客力による経済効果のようなものを事前に(住民に)説明しておけば、あれほどの反発はなかったでしょう。もっとも私が鳥取県民だったとしたら、事前に説明されても「無駄遣いだ、やめろ」と叫ぶと思いますがね。単なる(市販されている)箱を並べて「ポップアートだ」と言われても「ふざけるな」です(笑)。

「説明」が必要になった時点でそもそも失格なのです。したがって「丁寧な説明」というセリフに勝る慇懃無礼はない、とまで言えるかもしれません。UI/UXに優れたソフトウエアや家電製品はマニュアル(取扱説明書)を見なくても快適に使えるものです。しかし取扱説明書と首っ引きでなければ使えないものもまだまだ多い。説明という行為そのものが必要悪なのですね。これは企画書や事業計画書などでも同じことが言えます。優れた企画(書)はとてもシンプルです。ダメな企画ほど「風が吹けば桶屋が儲かる」的な説明をどんどん継ぎ足してくるので、妙に余計な説明が多くなる。全てが「言い訳」に聞こえてくる。加えて「AをやればBになる」という文言の中には必ず確率変数(%)が入ることになりますから、これが増えれば増えるほど、それらの乗数は限りなくゼロに近づくことになる=その企画は実現しない、ということになります。A4一枚で表現できない企画はそれだけで失敗です。

ただし説明自体がサービスになる仕事はありますね。例えば、高級なレストランなどでは、料理が運ばれてくるたびに、それがどういうものかを詳しく説明されることが多いはずですが、あれは「説明してもらわないと何を食べているのかわからないから」です。これはそもそも食事という行為の特殊性、すなわち「美味しさに占める味覚の割合が予想外に低い」という原則によるものです。極めて適当な数字ですが、味覚10%、嗅覚(香り)20%、触覚(食感)10%、状況(誰と食べているか、屋外か室内かなど)20%、そして情報(材料の原産地や調理方法、鮮度などのメタデータ)40%、といったところでしょう。私たちが食べているのは食材ではなく、状況や情報なのです。山頂で炊きたての“コシヒカリ”に少しだけ塩を振って食べたらさぞかし美味しいでしょうねえ、という話です(やったことありませんが)。

一方で、優れたメタメッセージというものも存在します。例えば、発信者の名前が表示されるスマホが普及することで、もはや死語になりつつある「もしもし」は「私は今なら通話可能だが、君の都合はどうか?」を端的に表現したメタメッセージですし、元気な「おはよう!」という挨拶には「俺は今日も元気だよ」というメッセージが隠されているはずです。というわけで結局は(メタメッセージやコノテーション なるものは)使い方次第、ということでしょうか。使い方に人格が現れることに留意したほうがいい、とも言えますね。

ローカルナレッジ 発行人:竹田茂

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