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常識の相対化とノスタルジー

Posted by local knowledge on November 25th, 2022

今年1月に創刊した『Modern Times』で主張したいことをひとつに絞るとすれば「常識は猛烈なスピードで相対化されている」ということに尽きるような気がします。「常識」はそもそも状況依存度の高い価値なので、文化・歴史・慣習が異なれば違ったものになります。そしてこれに時間的変化が加わります。実は最初から相対化されているわけです。例えば、冷蔵庫は食べ物の腐食を避けるために適切な温度で冷やすための電気製品、というのが私たちの常識ですが、これが極寒の地で利用される場合、(外に放り出しておくと全て凍ってしまうので)適切な温度に保温するため、つまり“温めるため”に冷蔵庫を使う、ということが常識になります(アルゼンチンの一部地域が実際にそのような利用をしていると聞いたことがあります)。これなども常識がそもそも相対的、という好例かと思います。加えて常識には「身体的価値の瞬時の創出」が求められるケースが多いので、機械学習やディープラーニングでどうにかなるという話でもありません。自分と自分の周りにいる人が快適さを享受するための、極めて局所的な(狭い範囲の)技術、と定義できるかもしれません。丁寧な説明が簡単に苦し紛れの釈明に成り下がるのに比べると、常識を良識に昇華させるのはなかなか大変(=不特定多数による社会的承認が必要)なのですね。たくさん本を読んだだけの知識人の中に非常識な人が多いのも興味深い現象ですが、これはまあ余談です。

イノベーション論でよく登場するのが「常識を疑え」という常套句ですが、その意味において、常識というのは最初から疑わしいのです。そもそもイノベーションを起こすためのフレームワークなるものが存在したとしたらそこから出てくるものがイノベーティブであるはずもありません。いずれにしてもこの常識の疑わしさ(=相対化の増大)に拍車をかけているのがインターネットおよびデジタルテクノロジーであることは衆目の一致するところでしょう。ここにコロナ禍と(ロシアによる)ウクライナ侵攻が加わることで、もう(何が常識なのかわからず)お手上げ、という状態になっている、と考えられます。(脱炭素のように)デジタルは常識の相対化をよりエキセントリックな方向に先鋭化させやすい。常識の相対化が皮膚感覚を凌駕する圧倒的なスピードで迫ってきている。というわけで、そのスピード感に対応できるリフレーミング(reframing)技術を会得していただきたいというのが『Modern Times』の編集意図になるかと思います。

「常識の相対化」の価値を裏付ける時に利用されるセリフが「便利」という言葉ですが、私たちはこれが諸刃の剣であることに自覚的でなければなりません。(インターネット)メールの利便性に慣れていると、手紙の価値を忘れてしまいがちになる、というやつですね。「それがデジタル化された時に失う可能性があるもの」に敏感な態度は、旧来の方法とデジタルを使い分ければいいだけの話なので、結局のところ人生を豊かにしてくれると思うのです。現象としては単にオプションが増えただけの話になりますからね。「今どき、電話で連絡を取ってるのは馬鹿、全部メールで事足りる」と豪語している有名人のYoutube動画を見たことがありますが、こういう発言をする人は物事の本質的な部分をあまり掘り下げた経験がないのだろう、と思います。

常識の相対化は「そこにあったはずのモノ(あるいはヒト)が消えた」というような視覚的認知の変化(改札から駅員がいなくなった、など)であればわかりやすいのですが、世の中の「常識の相対化」にはむしろ視覚で確認できないもののほうが多いかもしれません。例えば「マスメディアには議題設定機能(agenda-setting function)がある」という常識はかなり前から溶け出しています。個人的にこれを実感したのは(少し古い話ですが)「保育園落ちた日本死ね」というソーシャルメディア上の個人的なつぶやきが待機児童解消問題に急進し、人口減少社会でさほど増やす必要がなかったはずの保育園・幼稚園の急増が、今また逆問題としてクローズアップされていたりする、という“事件”ですね。これは政治とマスメディアがポピュリズムに寄り添いすぎたことによる失敗、すなわち議題設定機能の欠落を証明する象徴的な事象だと思うのです。

社会としての常識の相対化が良いことなのか悪いことなのかは事後的にしかわかりません。それもおそらく私たちの寿命をはるかに超える長い時間軸で判断されるべきことになるはずです。ただし個人としての常識の相対化はあまり良い結果を産まないような気がします。というのも、個人の人生の充実度というのはおそらく豊富なノスタルジー(nostalgie:郷愁)で満たされることにあると思うからです。回想脳という言葉もあるように、ノスタルジーは個人的な成功体験の回想なので自分の人生を正当化するための強力な材料になります。これが自らの未来を切り開くためのエネルギー源になっていることが知られていて、私たちの日々の活動は実はせっせとこのノスタルジーを作るための活動だったりするわけです。常識の相対化はこのノスタルジーを断罪することがあるのですね。わかりやすい例が150周年を迎えた鉄道事業です。

より効率的で生産性の高い社会を作ることがゴールならば、鉄道事業は(極論すれば)すでに随分前から不要なもの、東海道新幹線と都会の私鉄だけあればいいという状態になっています。鉄道の駅と旧国道をつなぐネットワークはもうかなり前からバイパスとそこに併設されるショッピングモールに置き換わっています。ただし鉄道というノスタルジーがインストールされた個々の心象風景の豊かさは認めるべきでしょう。まだ私が幼少期の頃、実家(新潟県上越市)から歩いて数分のところに北陸本線が走っていました。しんと静まり返った線路に直接耳を当ててしばらく待っていると、遠くから「シュンシュン」という小さな音が聞こえてきます。これは1分後くらいにここを通過するであろう列車からの音なのですね。この「音が聞こえ始めた時の興奮」は今でもその音とともに鮮明に想起することができます。それを知っている自分の人生はなかなかいいもんだ、と思うわけです。ノスタルジーはリアルタイムで生産されています。無論今の子供が将来ノスタルジーと感じるであろうモノやコトもあるわけです。そしてそれらは全て「正当化される資格がある」ということですね。

鉄道事業を断罪するジャーナリストの態度と、鉄道事業に対する個人的なノスタルジーは「どちらも正しい」のです。社会課題はパズル(puzzle)、パラドックス(paradox)、そしてジレンマ(dilemma)の3種類に分けることができるのですが、パズルは正解が一意に決まる問題で、学校などの理想的な閉じた理想的な空間でのみ観察できますが、実社会にほとんど存在しません。大半の社会課題はこの鉄道事業のようなジレンマの形で出現します。ジレンマの主たる解決手段は「交渉」ということになりますが、社会課題のはずのパラドックスが役に立つ可能性が否定できない、パラドックスはジレンマを解消させる道具になる可能性がある、と思います。いずれにしても「常識は積極的に相対化せよ、ただしノスタルジーは個人にとってのエネルギー源である。アクセルとブレーキは両方一緒に踏め」これがとりあえずの結論でしょうか。

ローカルナレッジ 発行人:竹田茂

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