コンパッション都市を作る
Posted by local knowledge on December 16th, 2022
「手伝おうか?」という一言が諍いの発端になったという経験のある方も多いのではないでしょうか。育児や家事に追われ、なりふりかまっていられない妻を見るに見かねた夫が冒頭の言葉を投げかける。ところが妻にしてみればその一見優しいセリフにカチンとくる。「手伝おうか?」という言葉の前に「それは俺の仕事ではないけれど」という前提を感じ取るからですね。妻にしてみれば「育児(や家事)は2人でするもの」のはずなので、業務分担に関する認識の食い違いがトラブルの遠因になっているわけです。実際問題、日本は「イクメン」などという奇妙な言葉がもてはやされている程度には未熟な社会なのでしょう。
街を歩いていて、自分の少し前を歩く老人が転びそうになった時に「支えましょうか?」と声をかける非常識な人はいません。おそらくカラダがその老人を支えるべく瞬時に動いてしまう。正義感とかそういうものではありません。勝手に動くのです。「仕事」なるものが最終的には見ず知らずの人の役に立つための行為“全て”だと考えれば、それが自分の得意な業務であろうと、経験のない作業だろうと「全部自分の仕事」なのですね。専門性を深めれば深めるほどこの意識は希薄になりがちです。
サンダーバード2号のコンテナの中から出動する救助メカは、同じものがほとんど登場しません。せいぜい4号とジェットモグラくらいですかね。専門性が深くなってその技能の特殊性が先鋭化すると守備範囲が狭くなり、登場の機会が限られ汎用性を失う、という好例(?)でしょうか。そして私たちはその極めた特殊な技能にあぐらをかき、それ以外のことは自分の仕事ではない(it’s not my job)と認識しがちになります、が、それおそらく間違いなのですね。「世の中の人の役に立つであろう行為すべて」が私たちの基本的な仕事で、その一部に他人よりも少し得意な業務「も」ある、という認識が必要なのです。
その意味で「ジョブ型雇用」は基本的に人間のあるべき労働観に反すると考えられます。ここはやはり「メンバーシップ」で行くべきで、そのメンバーシップの範囲を閉じた勤務先の中から解放して、地域などの自分の目の届く範囲に、そして死にゆく人とそれを見守る人たちにも広げろ、と警告しているのが『コンパッション都市-公衆衛生と終末期ケアの融合』の著者、アラン・ケレハーではないかと思います。彼の日本における最も良き理解者である竹之内裕文氏(静岡大学・未来社会デザイン機構 副機構長、農学部・創造科学技術大学院教授)が、来週の島薗塾「新たなケアの文化とスピリチュアリティーコンパッション都市に向けて」のゲストとして登場します。詳細は当日のオンラインイベントで色々お聞きしたいと思いますが、ここで簡単に「コンパッション都市」に関する竹之内氏の説明をご紹介します。
「コンパッション都市」構想は、健康増進のためにWHO(世界保健機関)が定めたオタワ憲章(1986年)に端を発します。そしてこのオタワ憲章に基づいた「健康都市」プロジェクトでは、1)清潔で安全な物理的環境、2)居住者の基礎的ニーズに対応、3)相互支援的・包括的・非搾取的コミュニティ、4)そのコミュニティが地域の統治に関与、5)多様な経験、交流、コミュニケーションへのアクセス、6)歴史・文化的資産の振興と称賛、7)アクセスが容易な保健サービス、8)多様性とイノベーションを備えた経済、9)持続可能な生態系、が定められました。
これ自体はいかにもWHO的な、しかし画期的な考え方ではあるのですが、このオタワ憲章「健康都市」プロジェクトの最大の弱点は「死にゆくこと、喪失の経験」が排除されていることです。老化を重ねても、病や障害を抱えていてもコミュニティの支えがあれば人は健康的に生きられる。また大切な人と死別したとしても、あるいは自らの死が迫っていようとも、自然・社会環境が整備されていれば、人は最期まで健やかに生きることができる。その時に「コンパッション(compassion)」の働きが欠かせないはずだ、というのがアラン・ケレハーの主張です。ただ、問題はこの「コンパッション」という言葉に私たちがあまり馴染みがないことと、(だからこそでもありますが)そのコンパッションを実装するためのアクションプログラムがイメージできないことですね。竹之内氏はこれを確固たる運動体にしていくために日々奔走されています。言うまでもなく、グリーフケアを推進する島薗進氏の活動との相性も良い。
ローカルナレッジ 発行人:竹田茂
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