大陸法・英米法とイノベーションの関係
Posted by local knowledge on March 10th, 2023
様々な国が採用している法体系は大きくは大陸法と英米法に分かれます。日本は明治時代にドイツのプロイセン憲法をパクって大日本帝国憲法を作った関係から、基本的には大陸法を採用しつつも、民法などには英米法を採用するという少し変則的な形でした。ご存じのように第二次世界大戦後に制定されたの日本国憲法は米国主導で作成されたものではありますが、昨今の政治状況、特にロシアのウクライナ侵攻後の日本政府の対応を見ていると、根底の部分に大日本帝国憲法の“魂”のようなものが脈々と引き継がれているのは明白です。ともあれ、大陸法は基本的にはホワイトリスト方式、すなわち「やっていいこと、やるべきこと」が書いてある方式、英米法はブラックリスト方式、つまり「やってはいけないこと」が判例主義の前提で記述されていると考えておけば良いでしょう。
さて「ヒトのやること」には無数の種類がありますが、これが仮に10,000通りあると仮定します。ホワイトリスト方式はそのうちの1,000種類の「やっていいこと」が書いてある法体系と考えられます。この場合、残りの9,000種類のヒトの行動は自動的に「やってはいけないこと」になります。一方、ブラックリスト方式は「やってはいけないこと」が1,000種類記述されてはいますが、残りの9,000種類については(やっていいとも悪いとも)特に言及していません。これが、問題が発生したらその都度協議すれば良い、という判例主義につながります。
お気づきのように、イノベーション(innovation)にとって都合がいいのはブラックリスト方式の英米法でして、ここには「今まで存在しなかったものや行為を(とりあえずは)許容せざるを得ない」という、可視化されていない構造(structure)が埋め込まれている、と考えることができます。「とりあえずやってしまえ。問題があれば修正すればいい」という最近の代表例がYouTubeですね。スタートした頃は著作権違反だらけの悪の温床のようなサービスでしたが、違反コンテンツでもそれが流行したほうが原著作権者にメリットがあることが判明し、むしろ積極的に使え、という形で拡大してきました。フェアユースの拡大解釈も貢献したと思われます。そしてある程度の規模が見えてきたところで極めて精緻なコンテンツコントロールを施すことで、公共財としての市民権を獲得したと言っていいでしょう。
もしもホワイトリスト方式でYouTubeを始めたとしたら、無難で味気ないものしか集められないので、いつまで経ってもユーザーが増えず、縮小均衡していき、最終的には消える、という運命を辿ったであろうことは容易に想像できます。ネット黎明期に「清く正しく美しく立ち上げられた日本のウェブサービス」はすでにその大半が消滅しています(デジタルアーカイブ系に多いですね)。この方式は「それまで存在しなかった技術や行為の記述」が原理的に不可能なので、イノベータの出現を排除する傾向があるのは否めません。ただし既存のルールを延命させることには向いていて、戦後の混乱期や高度成長期にビジネスモデルを強固にした業界団体・機関には好都合な方式だとも言えます。
日本にとって最も現実的な法体系の運用としては「ホワイトリストを必要に応じてどんどん上書きしていくということ」でしょう。これは法律は遵守するものではなく、常に書き換えられていく対象であると認識・運用することを意味します。農業基本法、道路交通法、放送法、電波法、どれをとっても法体系自体が経時劣化を起こしているのは言うまでもありません。インターネットとデジタルテクノロジーがこれに拍車をかけています。民主的な手続きに則って常に書き換える運動体としては“国会”がすでに用意されているはずですが、昨今の様々な報道を見ていると、彼らにそれを託すのは、私のような法律の素人でも恐ろしい、と感じます。加えて、検察官と裁判官の間でごく普通に人事異動が行われているような国で「民主的な書き換え活動」が期待できるはずもありません。
ここはおそらく、極めて公共性が高く、政府から独立した(=NHKはここで脱落します)監視機関(watch dog)が必要なのだろうと思います。そしてそれは“メディア”という形で私たちが使い倒せるものになっていて、そこで働く人には高額な報酬を約束しますが、自ら応募することはできず、全ての職員は他薦で決定する、というようなものではないかと思います。そもそも憲法というものが政府に対する(国民からの)命令ですから、この監視機関に財政を投入させるわけにはいきません。経団連がスポンサー、というのも少しヘンです。というわけで、このあたりを佐藤卓己さんと一緒に考えようかな、と思い始めたところです。本人の了解をとっていませんが(笑)。
「日本ではなぜイノベーションが起きないのか」について議論しているネット系の討論番組をぼんやりと眺めていたのですが、そこに登場した出演者の誰一人として法体系を問題にした人がいなかったので、さほど法律に詳しいわけでもない私が少し外からコメントさせていただいた、というのが今回のコラムです。ついでに余計なことに言及させていただくとすると、憲法といえばとかく「9条」が俎上に載せられがちですが、私たちが政府を監視するときにどの条項を軸にすべきか、と考えるとこれはもう13条に尽きると個人的には思います。すなわち「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」です。これをアタマの中に叩き込んでおくと、私のようなものでさえ、国会・内閣・裁判所の三権が全く分立していない日本の惨状をなんとかしなくてはと思うことしきり、ですね。法体系は建築物における基礎工事に該当します。基礎を見れば「どんな建物が出来上がる予定なのか」が大体想像できるんです。その基礎の良し悪しに関する議論をせずに「なぜイノベーションという果実が育たないのか」を延々と議論するのは時間の無駄ですね。さらに言えば「イノベーションは本当に果実なのか」も併せて塾考する必要があるでしょう。
ローカルナレッジ 発行人:竹田茂
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