間違える、という掛け替えのない価値
Posted by local knowledge on April 28th, 2023
美味しいと感じたコンビニ弁当も、同じものを3日も続けて食べていると舌が受け付けなくなります。コンビニ弁当が完璧な工業製品=ブレがない、からですね。AIを利用した音声合成で読み上げられるニュースも「これはアナウンサーによるものではない」と一発でわかります。その発話のあまりの正確性に不自然さを感じるからでしょう。人のやることには、ある種のブレや言い間違い、発話上のクセなどが必ず含まれていて、私たちはそのブレを敏感に感じとることで逆に安心します。このように、その(サービスなどの)価値を具現化している99%の成分よりは、どうでもいいとしか思えない1%の微妙な差分に全身全霊をかけてこだわるのが私たちの生活なのかもしれません。このようなブレこそが個性(uniqueness)だ、と言っても差し支えないでしょう。
「科学的」とは、初期条件が同じ場合、再現性が高い確率で保障される事象のことを指します。加えて、その事象に反証可能性があることが科学的であることの必要条件になります。例えば好き嫌いには反証可能性がないので「俺は富士山が好きだ」と言われれば「ああ、そうですか」で終わりですが、「富士山は10年以内に80%の確率で噴火するだろう」という予測は反証可能性があるので(反論の余地があること=反証可能性がある、と考えてください)真偽はともかく、とりあえずは科学的な仮説であると認められます。また「工学的」とは、誰が入力しても出力結果が同じになることを意味します。自動販売機は、おっさんが乱暴にそのボタンを押しても、女性が優しくタッチしても、出てくる飲み物は同じです。入力時の個性は完全に排除されるので「自動販売機は工学的」と言えます。一方、ピアノは誰が鍵盤を奏でるかで出力結果は全く違ったものになります。ピアノ自体は音響工学に基づいて製作されてはいますが、ピアノ演奏は工学ではなく芸術、すなわち個性の発露だ、と言えるでしょう。
初期条件が同じでも再現性が低いものに医療があります。医療においては多くの場合、個体差(個性)が無視できない因子として効いてくるので、医療は科学的とは言い難い側面があります。2011年のアメリカ映画『コンテイジョン(Contagion)』は2020年のコロナ禍を予測した映画として有名ですが(実際には2003年の重症急性呼吸器症候群:SARS: severe acute respiratory syndrome を下地にして作った映画だと思います)、この映画で「個体差」が実にうまく表現されているので、まだ見ていない人はぜひご覧ください(今だからこそ見る映画かな、という気がします。少し気が引き締まります)。
日本顔学会の過去の有名な調査に「ランダムサンプリングした数百名の顔写真をモンタージュ(合成)すると必ず美人(または美男)になる」というものがあります。顔写真の合成=平均的な顔は、結果としてとても均整が取れ、美しいことは確かなのですが、同時にとても人工的(artificial)な、実際にはどこにも実在しない顔になります。音声合成による正確な読み上げと同様に、どこも破綻していない正確無比な演算結果にはどこか人を寄せつけないところがあるのではないでしょうか。私たちが実際に好ましいと感じる人の顔はその平均顔からは様々な部分が微妙にズレている(=ブレている)ことが多いはずです。そしてこれが「個性」に他ならないわけです。
「ブレが個性」と聞くと、誰もが思い出すのが2000年前後に一世を風靡した「1/f ゆらぎ」でしょうか。半導体中を流れる電流には、パワースペクトルが周波数(f)の逆数に比例するゆらぎが伴い、これが高感度増幅器(アンプ)のS/N比に悪影響を与える一方、心拍変動や脳波の観測時にも検出され、使い方によっては極めて心地よい刺激になることが判明した、というものです。キャンプで焚き火をしてると「1/f ゆらぎ」効果で脳内にα波が検出されて癒される等々の事例、あるいは扇風機、エアコン、医療機器などにも実際に応用されたことをご記憶の方も多いでしょう。ただし、私が主張したいのはこのような科学的な「ブレ」というよりはむしろ「根拠がはっきりしない間違いや好み」の重要性です。
アート(芸術)はこの「根拠がはっきりしない個人的な間違いや好みや個性」を徹底的に突き詰めたものではないかと思います。ピカソのゲルニカなどがわかりやすい例ですが、そもそもアートにはマスメディアに先行する形で「問題あるいは課題の提起を行う」という機能があります。アートは未来のメディアを先取りするタグボート(tugboat)なのですね。そしてそのアートが切り拓く先行指標としてのメッセージを拡大再生産していくときに、正規化された(=デザインされた、つまり定義された)メディアが必要になってくる、というわけです。まずアートが先行し、そこにメディアが追随していくということになるので、私のようにメディアを作っている人は常にアーティスト(文字の世界の場合は作家や詩人)の動向を注視しておく必要があります。彼らが全身で感じている“ノイズ”のようなものこそが、私たちが作るかもしれないメディアのプロトタイプである可能性が高いからです。
ローカルナレッジ 発行人:竹田茂
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