果てしなきリアリティの追求とメタバース
Posted by local knowledge on June 16th, 2023
私たちが日常生活で感じる「リアリティ」は、必ずしも「現実」の英訳(reality)ではなく、ましてや真実(truth)、あるいは事実(fact)とも少しニュアンスが違うはずです。強いて言えば実感(feeing)に近いでしょうか。この感覚は物理量や言葉で表現するのが難しく、それを感じた当事者が獲得したある種の“確信”を外部から第三者が揺るがすのは困難です。「信じるものは救われる」は人間の限界と可能性を同時に表現しているのかもしれません。
このリアリティは自然との対話を通じて、嗅覚や触覚などの五感で感じるものが多く、茂木健一郎氏はこれをクオリア(qualia)、すなわち「脳が感じ取ることができる質感」という言葉で表現しましたが、私たちが感じる「リアリティ」には過去の学習成果あるいはエピソード記憶のようなものが作用しているものもあるように思います。例えば他界した肉親が自分の中では生きているという実感、旅行中のとある場所(パワースポット)での霊感、あるいはユング(Carl Gustav Jung、1875-1961)が言うところの共時性(偶然の事象なのに蓋然性をリアリティとして感じ取ってしまう)、さらにユングの師匠のフロイト(Sigmund Freud、1856- 1939)が指摘するところの夢の中での体験なども、それが現実ではないことを頭では十分理解しているはずなのにリアリティ満載です。
さらに心理学や脳科学の範囲外でも私たちはたくさんのリアリティを体験しています。例えば本人から直接手渡しされるギフト(贈り物)よりは、宅配便で届く同じもののほうが(これは「想定外」という心理的ギャップも作用しているはずですが)真心がこもっているような錯覚も含めたリアリティを実感できますし、テレビでの衛星中継における遅延(latency)は「光の速度をもってしてもこれだけ遅れることによる地球の大きさ」を体感できます(実際にはエンコーディング/デコーディングの時間も含まれます)。また「サービス」のように対価が発生するものよりは「無償のおもてなし」のほうが相手の気持ち(の深さ)のリアリティを実感するでしょう。さらに、ウェブメディアよりは書籍などの印刷物に強い覚悟のようなリアリティを感じつつ、その印刷物よりも、手書きの手紙あるいは絵葉書に乱暴に記載された短いメッセージに、手紙を送ってくれた人のリアリティと受け取った自分の気持ちのリアリティを重ね合わせることができます。ついでに言えば、どんな一流フォトグラファーの優れた写真も、“ちょっとピンぼけ(Slightly out of Focus)”な家族写真のリアリティには太刀打ちできません。
ポジティブなリアリティを実感し、身体の記憶として蓄積していくことこそがヒトの人生なのだとした時に、このリアリティをデジタル空間のテクノロジーも利用しながら獲得しようという一連の活動が「メタバース(metaverse)」ではないかと思います。この時、2003年くらいに流行ったSecond Life(セカンドライフ)の黒歴史を想起してはいけません。むしろ思い出していただきたいのはマサチューセッツ工科大学(MIT)の石井裕教授が1997年に発表した「タンジブル・ビッツ(Tangible Bits)」に関する論文ですね。ここからVR研究が加速した、ということと、VR/MRとメタバースを区別することにあまり意味はない、ということを踏まえて事業開発していくべきだろうと思います。
そして現代のメタバース研究でさらに重要なのは、コンピュータサイエンスの専門家や情報通信事業者だけにそれを任せてはいけない、ということですね。彼らのアタマの中は「ハンマーには世の中全てが釘に見える(アフォーダンス:affordanceを提唱したギブソン(James Gibson)によるアナロジー)」状態になっているので少し危険です。デジタルとアナログの連携により最大の「リアリティ」が創出できる、ということがもしも仮説なら、当然そこにはアナログの専門家、つまり人文系・社会科学系の研究者、あるいは現場で働いている専門家の参画が必須でしょう。「リアリティはどの程度までの“拡張”が許されるのか」という議論に早晩ぶち当たるはずですから、法律・倫理・行政に詳しい方は早めに準備しておいていただいた方が良いと思います(AIと一緒ですね)。またアミューズメント(娯楽)としてのメタバースは、医療・教育・介護・福祉・産業のためのメタバースと比較した時には、無視して良い程度の市場規模にしかならないでしょう。主役はあくまで後者、つまり私たちが予想だにしなかった職業がメタバースというプラットフォームをベースに出現し、私たちがその施しを享受する、しかも一番稼いでいるのが身体的なハンディキャップがある人だったりする、という時代が目前までやってきているような気がします。
もっとも、ハンディキャップと個性(personality)は表裏一体なので、そういう意味では全ての人の働き方やリアリティの獲得方法に大きなインパクトを与えるのかもしれませんね。 話が全く繋がらないのですが、来週のローカルナレッジ/本の場は、5月に話題提供いただいた森田秀之さんが「大いに参考になった」という「タマシイ塾」をかつて主宰していた豊田高広さんにご登場いただきますが、よくよく考えてみたら、図書館とメタバースって相性が良さそうですよね。
実は最近、定期的に開催しているZoomを利用したオンライン会議で「全員がアバター(avatar)を利用する」というレギュレーションを参加者全員に強制してみました。擬似的なメタバースみたいなものです。1)どんなアバターを採用したかにその人の個性が出る、2)普段あまり発言しない人も、積極的に会話に加わるようになる、という2つの事実が発見できました。この会議を「読書会」に置き換えたとき、わざわざ既存のメタバース・プラットフォームを使わなくても、個性的な読書会を図書館が主宰できる可能性がありますね。特に頭の柔らかい子供に参加させるととんでもなく面白いことを思いついたりするので、盛り上がること間違いなしですね(すでに実施済み、というところがありそうですが)。
ローカルナレッジ 発行人:竹田茂
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