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私たちが取り戻すべきは「言葉」ではなく「人格」

Posted by local knowledge on July 14th, 2023

人の言葉遣いをあれこれ言う資格が私にあるかどうかは甚だ怪しいのですが、先日、ぼんやり眺めていたNHKの『ニュースウォッチ9(ナイン)』が「ことばの力を取り戻せ」という特集を組んでいて、そこで御厨貴(みくりや・たかし:東京大学名誉教授)氏が「“言葉”が力を失った最大の理由はSNS」と指摘していました。それも理由の一つであろうことは否定しませんが、根本的な理由はもっと別のところ、私の見立てでは、最近の「政治家の言葉の使い方」が元凶、と考えています。

言葉の使い方が如実に乱暴になったのは小泉内閣(2001〜2006年)の頃からでしょう。具体的には「郵政民営化」「自民党をぶっ壊せ」「骨太の方針」の3つです。この3つの言葉に共通するのは、1)フレーズが短く、一見わかりやすい、2)これを繰り返し大声で連呼する(=メッセージというよりはプロパガンダ=単なる選挙演説)、3)論理的説得ではなく感情的刺激を重視、つまり完全に下品な広告のアプローチなのです。田中(角栄)内閣(1972〜1974年)の頃のような「明らかにホラ」と思える愛嬌がまったくないところが厄介で、特に政治に無関心な層に心地よく響いてしまったのが言葉を軽いものにしてしまった最大の理由でしょう。民主党政権時代の当時の野田首相の「まったなし」の連発が、逆説的に“まったあり”の容認につながっていたり(そもそも大相撲の言葉を国会で使うなよ、と思いますがね)、さらにその後に続く安倍政権の「アベノミクス」「三本の矢」「異次元の金融緩和」あたりも有権者を思考停止に追い込むには充分なキャンペーン”だったような気がします。

しかし、それ以上に問題だったのは「ことばの力を取り戻せ」と偉そうに宣う当事者であるところのNHKなどに代表される大手マスコミの報道姿勢、そして言葉の使い方でしょう。政治家はある程度ポピュリズム(populism)に擦り寄らざるを得ない宿命にあるので、言葉でキャンペーンを仕掛ける、あるいは広告的フレーズを連呼するのは致し方ないところがあるわけですが、言葉に敏感でなければならないはずのマスコミが無定見に政治家が使う言葉をそのまま垂れ流しにしたのが、言葉が力を失った最大の理由でしょう。わかりやすい例が(前述の)「アベノミクス」ですね。

新しい発見や発明、スポーツの技、事実上の標準になった道具などに、それを発見あるいは開発した人物の名前や社名などを冠することをエポニム(またはエポニウム:eponym)といいます。フィギュアスケートでの「アクセル」、体操競技の「トカチェフ(スポーツの場合、新しい高度な技が開発されると、古いエポニムはあっさり捨てられる運命にありますが)」、数学における「ガウス平面(Gaussian plane)、電磁気学における 「マクスウエル方程式(Maxwell’s equations)」、さらに染物における「友禅」、さらに文房具の「ホチキス」、コピー機の「ゼロックス」など、ありとあらゆる分野にエポニムは出現します。共通するのは、1)当事者(発明者)はそれをエポニムであると宣言できない(当たり前ですが)、2)成功事例(成果)や財産としての社会的共通認識がある、ということです。その意味で「アベノミクス」はエポニムの条件をまったく満たしていない(=なんの実績もない経済政策を自らが命名し、自画自賛している)単なる広告コピーであるにも関わらず、それを吟味することなくメディアが連呼する、という事態が延々と続いたわけです。取材先の社名を公表しないことに対して異様に神経質なNHKが「いわゆるアベノミクス」を連呼するのは普通に考えてヘンだろ、と思うわけですよ。特定政党の広告コピーを連呼するメディアには、“ことばの力”を云々する資格も、公共性を語る資格もありません。まあ戦後政治がまさに「政治のメディア化」であることは疑う余地のないところなので、致し方ないのかもしれませんけどね。

一方、10年くらい前に『ウェブはバカと暇人のもの』という中川淳一郎氏の書籍が話題になりました。総論賛成なのですが、一つだけ付け加えさせていただくとすると、「バカと暇人」の実数は意外と少ない、ということと、それほど多いわけではない“バカと暇人”の一部の攻撃的な誹謗中傷を、必要以上に拡散させやすいユーザーインタフェース(UI)が、ウェブ空間全体を「バカと暇人だらけ」に見せている、ということには留意しておいたほうがいいでしょう。例えばホリエモン(堀江貴文氏)のツイッターには350万人のフォロワーがいますが、彼曰く「50人をブロックしただけで、全く誹謗中傷がなくなった」のだそうです。つまり他人を攻撃することに勤しんでいる人は意外と少ないのですが、それがネット空間ではとんでもなく広がっているように“見える”ということですね。これはUIとウェブの評価システムとして採用されているアルゴリズムに問題があるからです。

例えばTwitterのインタフェースは短い言葉を“呟く”ことを推奨するデザインになっているので、言葉が短くなる=物言いが乱暴になりやすい、という性質があります(短いメッセージを入れることをアフォード(afford)しているデザインだ、という言い方もあります)。著名な作家がTwitter場で第三者と反論し合っているのを見ていると「ああ、作家でも(このUIの意味が)わかってないのか」とがっかりしますね。これは俳句しか投稿できないTwitterのようなものを作ってしまえば(それが流行れば、という前提ではありますが)、五・七・五(十七音)でインターネット空間が埋め尽くされ、Twitterが作る罵詈雑言空間とは比較にならない癒しの空間が作れる可能性を示唆している、とも言えるのですが、ネットの最先端にいると自認している人ほど「Threads(スレッズ)」の登場で興奮してたりするので「お前らもう少し学習しろ」と言いたくなるのは私がもう若くはないからなんでしょうねえ。

もう一つの「ウェブの評価システム」にまつわる諸悪の根源は、ジャーナル(学術誌)に掲載された論文の評価システムとしてのインパクトファクター(Impact Factor)算出アルゴリズムにあるはずです(GoogleのPageRankはこれの単なるパクリですね)。簡単に言えばインパクトファクターには「被引用回数の多い論文ほど、さらに(過剰に)被引用回数が増えやすい」という欠点があります。特定の(それほど多くない)ノードが巨大なハブになりやすい、すなわち(実力以上に)過大評価されてしまう、ということです。ある閾値(threshold)を超えると指数関数的な増幅が始まり、巨大なハブとしてのショートヘッド(short head)とその他大勢のロングテール(long tail)に二分されてしまうのですね。前述のホリエモンの350万フォロワーとは「システムが勝手に増幅させた巨大ハブ」の側面がある、ということです。こうなってくるとフォロワー数とは何を指し示すものなのか、実空間のアナロジーからはイメージしにくい“単位”に変貌してしまっていることがご理解いただけるかと思います(広告的価値=金(カネ)に換算するのがこの業界の標準のようですが)。

蛇足ながら、話題の「生成AI」はあたかもそれが最先端テクノロジーであるかのように振舞っていますが、実態は単なる誤差逆伝播法(backpropagation)という古典的なアルゴリズムにすぎません。さらに言葉や文章は「何を主張しているか」が重要なのではなく「誰が主張しているか」こそが主役です。「つまづいたっていいじゃないかにんげんだもの(商標登録第5100396号)」を相田みつをが語る分には「そうかもな」と思いますが、同じ言葉をもしも岸田首相が国会で語ったとしたらちょっとした騒動になるでしょう。言葉の主役はその内容ではなく、それを語る人の人格にある、というわけです。したがって(著作権以上に)人格権を尊重しないシステムは無味乾燥な定型文書やプログラムにしか使えないはずで、乾いた文明を作ることはできるかもしれませんが、潤いのある文化を作る可能性はほぼ皆無でしょうね。

さて、話を元に戻しましょう。政治家もメディアも、そして作家や言語学者、編集者も言葉に力を与えることができなくなっている時代に、一体誰の声に耳を傾けるべきなのか、と考えてみると、これはもう谷川俊太郎さんのような詩人、そして牟田都子さんのような校閲者に尽きる、と思いますね。売れそうな書籍タイトルを考えることにしかアタマを使わない編集者を尻目に、校閲者にはその書籍・雑誌の品質を一流のものに仕立て上げてくれる知性と知識があります。彼女たちこそ「ことばの力を取り戻せ」と私たちを叱咤する資格を有する人たちでしょう。この牟田さんのキャリアが図書館員からスタートしているらしいということにも少し注目しておきたいですね。

ローカルナレッジ 発行人:竹田茂

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