倫理や実感なるものは触覚に宿っている
Posted by local knowledge on August 18th, 2023
昨年(2022年)の8月に帰省した時には、いつものようにいつもと同じ昔話を楽しそうに繰り返していた私の父親は、その3ヶ月後の11月に息を引き取りました。その葬儀の時に、祭壇の前に横たわる柩(ひつぎ)に納まった故人の顔や頭を何度も何度も、繰り返し繰り返し優しく撫でてくれている彼の友人が何人かいらっしゃいました。いずれも私もよく存じ上げている故人の親友、と言っていい人たちです。「親父はいい友達に恵まれていたのだな」とありがたく思うと同時に、人は触られて(=産婆さんに抱き抱えられ)この世に生を受け、触ったり触られたりしながら成長し(=手仕事というのは本来そういう意味ですね)、最後は医師や大切な人、あるいは友人から触られて看取られ、そして来世に送り出される、つまり「人の一生は触り、触られることにある」という話を思い出しました。
父親が他界してしばらく経ってから実感したのは「父親が自分の中では生きている」という感覚でした。信心深さとは全く無縁な私でさえ感じることができるこの感覚を言語で表現するのは困難なのですが、父親がいなくなることで、むしろ自分の中に父親が宿っていることを実感できたのですね。論理的・宗教的なものではなく、ある種の体性感覚や内臓感覚に近いもので、強いて言えば、五感の中の“触覚”に近いな、と感じました。父親の成分で作られた自分の心臓がその他の臓器を撫でているような感じとでもいうのでしょうか。この感覚を会得することで、この歳にしてようやく「一人前の大人になった」ような気がします。
いずれにしても本当に大切なことが「言葉」で表現できることは極めて少なく、むしろ私たちは触覚を通して「生きている」という実感を獲得しているのでしょう。同じ言葉でもそれをテキストとして読んでいる時(langue)と、その同じテキストを発話している人から聴く場合(parole)で説得力が違うのは、パロールが限りなく(音圧の伝搬を通した)触覚に近いから、ですね。(ついでに言えば、最近の花火大会は大音量で音楽を流すのが普通になっているようですが、あれはやめた方がいいですね。せっかくの花火からのパロールが濁ったものになってしまいます)。「言葉は定義した瞬間にフィクションになる」という堀田善衛の名言(出典が不明ですが、確か彼のセリフだったと思います)の意味が若い頃はよくわからなかったのですが、触覚的価値の実感の高まりとともに、その意味するところがようやく解ってきたような気がします。
ところで、最近話題になった「国立科学博物館によるクラウドファンディング」ですが、「国立の博物館がクラファンに手を出さざるを得なくなるまで追い込まれるという文化軽視の財政のあり方に対する怒り」から「金のある大企業が基金を出し合って運用するのが合理的」という規制緩和型のアイデアまで、賛否両論渦巻いているようです。個人的には「これが悪しき前例(=ふるさと納税における東京・世田谷区の悲劇と同じですが)にならないことを望む(他の美術館でもこれをやり始めるのは危険だと思います)と同時に前者を支持する立場」 ではありますが、もう一歩踏み込んだ議論が必要だろう、とも思います。それは「果たして国立科学博物館は本当に(国民の)役に立っていたのか」という視点です。
国立科学博物館に限った話ではありませんが、一般に博物館・美術館は「撮影禁止、触るなどもってのほか」というスタンスです。撮影(許可)はかなり緩和されていると聞いていますが、「触る」のが御法度なのは相変わらずでしょう。しかし先に述べたように「人の一生は触り、触られることにある」と考えると、美術品に直接触れることができない、という制度設計は根本的に間違っているはずです。視覚で理解できる範囲は極めて限定的、というか本当には理解できない、触ってみないとわからないから、です。触ってほしくない、という気持ちはよくわかります。その分劣化しますからね。適切な状態(?)で保存されなくなるというのもよくわかりますが、アーカイブズ(archives)は(公文書なども含め)そもそも“現在”発生している様々な社会課題を解決するための前世からの贈り物ですから、盗難騒ぎで一躍有名になった長野・善光寺の木像「びんずる尊者像」のような使われ方、つまり長年「触られ続ける」ことで表情が消えてしまうくらい「使い倒されたアーカイブズ」、その使い倒されたという歴史とともに保存されている状態こそが、アーカイブズの理想像のはずです。触覚でしか伝わらない価値がある、というよりは人生の価値の大半は触覚で構成されているから、ですね。
無論、触る人に一定にマナーが求められるのは当然として、アタマ(言葉)ではなく手(触覚)で感じ取ることができれば、その教育的価値は比較にならない、ということに対して美術館が鈍感だった、ということはないでしょうか。そもそも財政の原資は税金です。つまり国立博物館のオーナーは国民です。「びんずる尊者像」のように地元に愛されている、役に立っているという実績があれば、政府としてもそれなりに予算をつけなければならないな、ということになったはずと思うのです。そしてその「触る」価値に敏感なのが実は図書館に勤務する人です。本という「モノ」に触れるのは所与の(当然の)こと、なので敢えて強調していないのだろう、と思いますが、美術館が本来やるべきことを当然のこと、当たり前のこととして実施しているのが図書館なのですね。特にくだらない新刊ばかりが増産され、本当にアクセスしたい本が絶版になっていたりすると、俄然図書館の役割は大きくなることになります。fMRI 実験など実施しなくてもその価値は揺るぎないものでしょう。
触覚の価値を実感したい人には東工大・伊藤亜紗さんによる『手の倫理』がお勧めですが、8月17日の「本の場」は、図書館情報学がご専門で長年読書バリアフリーや図書館の障害者サービスを研究してこられた専修大学文学部教授の野口武悟さんをお迎えして『読書バリアフリーの世界』の読書会を行います。視覚による表現の認識が困難な人とはどのような人か。「読書バリアフリー法」はどのような経緯でできてきたのか。「バリアフリー資料」にはどのようなものがあるのか。読書から誰一人取り残さない社会の実現に向けて、自治体や図書館や学校や出版社、或いは私たちひとりひとりがこれから何をしていけば良いのか。同書の内容に沿って、読書バリアフリーに対する理解をみなさんと一緒に深めていきます。今年の夏休みはぜひこの2冊を時間をかけて堪能いただくのが良いかな、と思います。
ローカルナレッジ 発行人:竹田茂
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