ニューズレター

企業倫理を問うのは難しい

Posted by local knowledge on October 13th, 2023

メディアがごく普通に使う「企業倫理が問われる」という言葉づかいに非常に違和感を感じています。この言葉の存在が責任の所在をむしろあやふやにしているような気がするからですが、その理由を以下にご説明します(なお、倫理という言葉の説明に道徳を用いたり、道徳とは何かについて「倫理のこと」というテキトーな循環参照をしている用語解説が多いですが、これは明確に異なるものであることを前提にしています)。

倫理(観)なるものはあくまでそれぞれのヒト(個人)の中に内在するものです。当然、個人差がある。そしてその個人の倫理観にその国の人口を掛け算すれば、倫理の総量が算出されることになります。これが道徳だ、と考えることにします(倫理の総量=道徳)。ところが(残念ながら)その倫理の総量としての道徳だけで世の中がうまく回ることはありません。社会的道徳は常に“足りない”のが普通です。善良な市民(?)であるはずの私たち自身、そこそこ倫理観が部分的に欠落しているからでしょう。そこで法律が登場します。つまり(個人の倫理観)×(人口)+(法律)=(期待される)道徳、という式が成立することになります。同時にこの「法律」の守備範囲を狭くて小さいものにするためにマナー(礼儀:manner)が存在します。これが大きいと社会的コストがぐんと下がります。ただしマナーの弱点(同時にメリットでもありますが)は汎用性に欠ける(地域、状況、文化、などによって大きく異なる)ということと、マナー違反が法律で罰せられることはない、というところですね。

個人が集まって企業を構成しているとき、その個人(社員など)がそれぞれに持っている倫理観を合算すれば(当該企業の)企業倫理ができそうなものですが、企業は毎年のように社員が入れ替わるのが普通ですから、その企業倫理がどういうものなのかを明文化するのは困難です。ビジネススクールなどではしっかりと企業倫理(business ethics)なるものが定義されていて、「法令遵守」がその一つの要件になっていたりするのですが、しっかりした倫理があれば法律は不要、倫理の足りなさは法律で補う、という関係からすれば、この定義は少しおかしい、ということがご理解いただけると思います。さらに「行動規範」のようなものを定めている会社もあるようですが、まあ、多くの社員にとっては単なる余計なお世話、社長の妄想・趣味に過ぎないので、はなから議論の対象になり得ません。

そもそも個人には自分が好き勝手に独自の倫理観を構築する自由があります。アタマの中で何を考えようとそれ自体が問題になることはない(まあ、当たり前ですね)。問題になるのは具体的なアクション(行動)が法律に抵触した場合であって、どのような倫理観からそのアクションが起動したのかは大いに興味のあるところではありますが、倫理観それ自体を探られるのは案外不愉快だったりします。

では「企業」とはなんでしょう。とりあえず会社法で規定している団体が企業だとしておきましょう。実は、会社法・商法上(商業登記法および法人税法上)で意味がある肩書きは、取締役・監査役・会計参与の3種類に限られます。例えば「執行役員」という言葉は法律上は何の意味もありません。「少し昇進が早い従業員の一人」に過ぎないわけです。ですから、具体的に企業倫理が問われるような事態が発生した場合、すなわち法律を犯したと推定される場合ですが、漠然とした「法人」に話を聞きに行くわけにはいかないので、法律上意味のある肩書のある人(=多くの場合、取締役)を詰問することになるはずです。この時点で企業倫理などという空虚な絵空事は吹っ飛んで、当該企業のある特定の誰かが「法令違反」を犯しているのではないかが問われることになります。「企業倫理それ自体が問われる」ことはないのです。

それでも、たとえばメディアが「企業倫理が問われる」と言い続けている場合は、法律そのものが間違っている(=状況に追いついていない)可能性が高いですね。法律は遵守することが重要なのではなく、状況に応じて書き換えられていくべき対象だと思います。ただ、その法律の書き換えが場当たり的なものなのかそうでないのかを当事者、あるいは立法府(国会)が判断するのはなかなか難しいでしょうね。長い年月を経てみないとその「書き換え」の評価は定まらないのが普通だからです。例えば現在の刑事訴訟法では「故人を訴追することはできない」はずですが、これは流石に書き換えた方がいいのではないか、という事態が今発生しているのはみなさんご存知の通りですが、本当に書き換えていいかどうかはよくわかりませんね。下手を打つと類似する過去の事例への適用、あるいは集団訴訟(class action)に発展する可能性も潜んでいることまで考える必要があるからです。

AI倫理なる言葉もよく聞くセリフですが、AIに倫理が存在するわけがありません。あれは単なるアルゴリズム(プログラム)ですから、AIに倫理が発生するとしたら、それはそのアルゴリズムをオペレートした人自身の倫理感の問題に帰着します。アルゴリズム自身に倫理があるわけはありません。あるいは(少し話が逸れますが)「量子暗号は強力、絶対破れない」と言いますが、末端(terminate)のコンソール(キーボードなど)を操作している人の倫理観が低ければ、量子暗号がいくら強力でもデータはダダ漏れになるだけです。どんなに技術が“進化”しようと、最後はたった一人の倫理観で物事が決まる、ということです。そしてもう一つ注意した方がいいのは、そのAIを操作する権利を政府が握ってしまうことですね。特に現政権の場合、ロクなことにならない可能性が高い(笑)。

ローカルナレッジ 発行人:竹田茂

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