態度の容認は違和感の消滅と同期する —- アートは態度をリ・デザインするための道具
Posted by local knowledge on October 24th, 2023
『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?という書籍が発売されたのが2017年ですが、 この新書を皮切りに「アートをビジネスに活かす」あるいは「アート思考で成功する」という一種のムーブメントが沸き起こり、これに引き摺られる形で「アートとサイエンスのコラボレーション」も活発になった、と記憶しています。
“グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補を送り込む、あるいはニューヨークやロンドンの知的専門職が、早朝のギャラリートークに参加するのは、こけおどしの教養を身につけるためではありません。彼らは極めて功利的な目的で「美意識」を鍛えているのです。なぜなら、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足をおいた経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということをよくわかっているからです”
というなかなか魅力的な口上からスタートする同書はとても面白いので、一読に値するとは思いますが、同時に、私のようにメディアビジネスにおける新規事業開発(BizDev)を繰り返してきた立場からは「現場感のない綺麗事の寄せ集め」に感じられるのも事実。サイエンス重視(scientific)とスペキュラティブ(speculative:思索上の、妄想の)は同じ軸上にある、どちらも大切な概念で、サイエンス重視だからダメ、は少々乱暴でしょう。
一般に、雑誌・書籍・テレビ・新聞・映画・ウェブメディアなどを作っている人で、アートに関心がない人はいません。アートは、次に来るかもしれないメディアのプロトタイプを提示していたり、タグボート(tugboat:曳船)として機能する場合があるからです。アーティストが何を考え、何を感じてアート作品を作っているのか、という思考の軌跡や作業のプロセスは、新しいメディアを作ろうとしている(私のような)事業者にはとても参考になります。そして、それらアートが“実用化”されることは歴史が証明しています(ただしごく一部です)。
アートがある種の主張を表現する道具として幅広く普及するフェーズに入るためには、アートをデザイン(=大量生産を前提とした工学的な定義)という作業に落とし込む必要がありますが、このときオーディエンス(ユーザー)の態度(attitude)もまたデザインされるべき対象として浮上します。逆に言えば、そのアートを受け止めるユーザーの、あるいは世間の態度が決定しない限り、そのアートは普及しません。では「態度のデザイン」とはどういうことでしょう。
携帯電話の普及黎明期(1990年代前半ですね)に、歩きながら電話で喋っている人を目撃して猛烈な違和感を感じた経験をお持ちの方も多いと思いますが、これは、歩きながらそこにいない人と会話するという「態度」が社会としてはまだ受け入れられていなかったからでしょう。現在は携帯電話そのものが視界から消えて、イヤホンを使い、まるで独り言を呟きながら歩いている人をたまに見かけるようになりました。個人的にはこれに大いに違和感を感じますが、これもまた時間が経てば「当たり前の態度」として社会に幅広く認知(承認)される可能性は十分ありますし、非難されることの多い「スマホに目を落としながら前をきちんと見ずに歩く」態度も、安全上の問題を孕んでいるにも関わらず幅広く定着していくのでしょう。態度の容認は違和感の消滅と同期しますが、アートの面白いところは一旦定着した社会的デザインを破壊しようとする別のアートが必ず登場することですね。アート自身はユーザーに常に新しい態度を要求する、あるいは提案することが仕事です。もっとも、メディアアートがまさにそうであるように、その大半は単なる思考実験で終了し、社会実装されることはありません。
長い年月を経てその態度が定着したものの代表に「映画」があります。ここでは「暗い場所から他人の生活をこっそり覗き込む」という態度が容認されます(これは故・淀川長治氏(映画評論家)の見立てですが、実に的を得た観察だと思います)。あるいはテレビがアフォード(提供)している態度は「あなたは何も考える必要はない」というものです。すでに家人や子供が寝静まった深夜に帰宅したサラリーマンが、背広を脱いだ直後に冷蔵庫からビールを取り出しつつ「とりあえずテレビのスイッチを入れる」のは、この「あなたは何も考える必要はない」というメッセージ(=シートバックエンタテインメント:seatback entertainment :背もたれに身を委ね、何も考えない状態を楽しむ)がなんとも居心地がいいからですね。これが故・大宅壮一が言うところの一億総白痴化に繋がるわけですが、パソコンのディスプレイが「もっと仕事しろ」と私たちを責め立てるのとは真逆の居心地の良さはなかなか手放し難いのも事実です(余談ですが、ディスプレイサイズと公共性は比例します。大きいほど公共性が増し、小さくなるほどプライベートなものになります。アート作品であれメディアであれ、サイズそのものにメッセージが込められている、と考えられます)。
しかし、現在、メディアに限らず様々な分野で起きている現象は、この「態度」自体の制度疲労あるいは経時劣化であることは疑う余地がありません。静かに読書・学習する態度を要求する「図書館」、作品に触れることを禁止する「美術館」、先生の話を大人しく聞かねばならない「学校」、教育を学校に丸投げする「地域」、単身世帯が普通になってしまった「家族」、毎日通勤するのが当たり前の「会社」、紙で読むことを前提とした「新聞」、など私たちの生活環境の大半が機能不全に陥っている、と思われます。一言で言えば高度成長期を経て定着した「態度」は、(メディアなども含め)一旦全てリセットしたほうがいい、ということです。そしてそこで必要になるのが、新しい制度を創出する可能性を秘めたアート思考での事業開発、あるいは生活の再発見です。つまり、私たちが未だ見たことのない「態度」を生成してくれるであろう作品あるいは事業、あるいは遠い昔に捨ててしまった古き良き態度の再発見が求められているのです。そして私たちには、当たり前に受け入れてきた態度に対して、大いなる違和感を感じることができる感性が求められているのですね。
ただし、先にも述べたように、アートの多くは社会に受け入れられることはありません。「何をやってるのかわからない」ことが多いからですね。従ってアートの多くは失敗に終わります。これは企業が実施する新規事業開発の大半が失敗するのと同じです。「今まで存在しなかった」のにはやはりそれなりの理由があるのでしょう。ここで重要なのはその成功率を少しだけでも高めるための環境を用意することでしょうか。例えばアーティスティックな起業で失敗しても、再チャレンジしやすいような制度、もう一つ重要なのはそこには「全く新しいもの」だけで作るのではなく、過去に捨ててしまった古き良き態度も含まれる、ということですね。
なお「何をやっているのかわからない」ことを理由に自分を卑下する必要はありません。評論家の薀蓄を基準に「美意識」を鍛えるほどバカバカしいことはありませんし、それが有名なアーティストの作品であっても生理的に受け付けないものは無視すればいいのです。あくまで自分自身の「好き・嫌い」に忠実であることが重要です。そしてなぜ自分がそれを好きなのかを論理的に説明する必要もありません。好きに理屈は不要、と言うか、理屈ありきの「好き」ほど不気味なものはありませんからね。大切にすべきはあなた自身の感性です。
ローカルナレッジ 発行人:竹田茂
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