
依存症は生き延びるための手段である
Addiction as a Methodology of Survival
Photo : 霧のブナ林 / Paylessimages / Adobe Stock
Posted by local knowledge on March 19th, 2025
精神科医・松本俊彦氏と文学研究者・横道誠氏による『酒をやめられない文学研究者とタバコがやめられない精神科医の往復書簡』で(松本氏より)紹介されていた、米国の依存症専門医エドワード・カンツィアン(Edward Khantzian)による「自己治療仮説」では、「依存症の本質は快感ではなく苦痛であり、人に薬物摂取を学習させる報酬は快感ではなく、苦痛の緩和である」として、酒、ギャンブル、窃盗、覚醒剤、タバコなどへの依存症の本質を突く議論が展開されています。すなわち依存症とは「何かに依存することで、辛い現実から逃避し、なんとか生き延びようとする手段」であり、それはある程度「有効」なのだ、という仮説です。
この「依存症」を無責任に拡大解釈していくと、最終的には「依存症→好きなこと→趣味」に行き着くはずで、私たちはそれを(その人の)個性として観察することが多いわけですが、これは実は「何かからの逃避行為」、すなわち見たくないある種の現実から目を逸らしているだけの行為、と考えることができる、という話が今回のコラムの最も重要なポイントです。例えば私自身は「黒い服」しか着用しません。第三者からは「黒い服を身に纏うことが趣味の人」に見えるはずですが、これは実は「洋服のことなど考えたくもない」という思考停止願望、すなわち一種の逃避行為である可能性が高く、「黒色」を積極的に評価しているわけではないことも自覚しています。歴史的には、ある種の「考え方( ideology)や行為」が趣味になってくると少々怖い事態を誘発する(=最終的には殺人を正当化できます)ことが多いのですが、それはともかく、「好き」はその行為や対象を積極的に愛している、というよりはむしろそれとは正反対のものからの逃避、と考えることができる、ということになります。皆さんもそれぞれ思い当たるフシがあるはずです。
さて、LocalKnowledgeでは、昨年11月に「物質知性と共に育むサスティナビリティ価値創造」というたいそうな題目のウェブイベントを実施しました。このイベントの隠れた狙いとしてイメージしていたのは「アートとサイエンスの融合」で、実際、長谷川愛さん(慶應義塾大学)や長澤忠徳さん(武蔵野美術大学)が提供してくれた話題はべらぼうにエキサイティングだったのですが、これがリサーチャー(研究者)の研究開発活動にどのような刺激を提供できるのか、ということに(個人的には)大いに関心があったのです。そのあたりのリサーチも兼ねて八十雅世さんにWirelessWireNewsで連載「研究開発のネタをアート/デザインの現場から探る」をお願いしたりもしています。
ただし、この分野(アートとサイエンスの融合)で世界最先端と言われるアルス・エレクトロニカ(オーストリア・リンツ市が運営する、先端技術・科学・メディアアートの融合により新しい価値創造を狙う機関およびイベント)のアウトプットの大半が結局「アート作品」で、この機関での活動から「新しい論文や特許が創出された」ことがないのが個人的には不満でした。「サイエンスを出汁(だし)に使ってアート作品を作っているだけ」と感じてしまったわけです。私は(日本の)アート市場をどうにかすることには正直全く興味がありませんが、アーティストの知見・作品・ノウハウに感化されたリサーチャが新しい価値を創造する、という(アルス・エレクトロニカとは逆ベクトルの)動きには加担したい、と考えている人物です。そしてそれが「シュレディンガーの水曜日」の狙いでもあります(先にご紹介したLocalKnowledgeのイベントは、実質的には「シュレディンガーの水曜日」という(私が組合の書記長的な動きをしている)プロジェクトの主宰です)。
ですが、前述の「自己治療仮説」を土台に置くと、「アーティストとリサーチャってそもそも同じものから逃避している同じ人たち」という仮説が浮上してきます。何から逃避しているのか、といえば(言わずもがな、ですが)「集中と選択に加えて、労働生産性(嫌な言葉ですね)の向上を計ることで経済的価値を最優先させようとする閉塞感だらけの社会」であることは間違いない。つまり、本質的には「同じ人たち」なので、第三者がそれを接続させよう、と考えるのは「余計なお世話」ということになります。彼ら/彼女たちは、深い価値観のレベルでは同じ人種であって、現実世界の都合で分離されているだけ、そして使っている道具(テンペラか、ノコギリか、電子顕微鏡か)が違うだけ、に過ぎないのかもしれません。加えて、アーティストとリサーチャの中間に(工芸や建築などの)職人(craftsman)を配置すると、この考え方はとても見通しが良くなることに気がつきます。
「今頃そんなことに気がついたの?」と村上先生に嗜められそうですが、「依存症は生き延びるための手段(Edward Khantzian)」を援用すると、名コピーライター照井晶博氏による“このろくでもない、すばらしき世界。”から必死で逃げて、凡人には価値のわかりにくい作品を作り続けるアーティスト集団や、社会実装できそうもない研究に没頭するリサーチャ集団がクリアカットに浮かび上がってきます。しかし同時に本当の「イノベーション」はここからしか生まれない、とも確信します。ぶっ飛んだ(crazy)研究や作品を野放しにする、それでも当のアーティストやリサーチャーはメシが食える、という原っぱのような共有地を作ることがセレンディピティ(serendipity)につながることはモンテカルロ・シミュレーションを駆使するまでもない自明の理であります。
というわけで、2004年の大学法人化に始まり昨今の高校無償化に至るまで、驚くべき愚策を次々と繰り出す教育行政に一石を投じる(まあ、小さい石ですけどね)運動体として「シュレディンガーの水曜日」を育てていきたい、と(改めて)考えました。絶賛スポンサー募集中です(笑)。
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